虎になって

虎になっていきる、虎になって眠る

友達いるけど卒業式は嫌い

どうも、しっぽだ。

世間では高校で卒業式が執り行われた頃だろう。

時にしっぽは、友達いるけど卒業式は嫌いだ。友達がいる「から」離れるのが辛くて卒業式は嫌い、ではなく、友達いる「けど」卒業式は嫌い。

友達はいる。別にクラスから浮いている訳でなく、寧ろ先生から学級委員に選ばれ、クラスメイトとも当たり障りなく、仲良くやっていた。誰かから特別に好かれる事もなければ、誰かから嫌われることは絶対に無い。そういった関係を目指して過ごしたし、実際上手くいっていた。気にしている分、自分が悪く思われていたら必ず気付く自信があるが、そんな風には微塵も感じなかった。卒業式前に配られる卒業アルバムに寄せ書きを書いてもらうといういかにも学生らしい事もやったし、書いてよ、と頼んでもらえる事もあった。それでも、卒業式は嫌いだった。寂しいから嫌いとか、そんなキラキラな青春は送っていない。

卒業式が嫌い、厳密に言うとこれは卒業式の後の時間が嫌いなのだ。誰とでも当たり障りなくやっている、逆に言えば特定の誰かと特別仲がいい訳ではないしっぽにとって、あの時間は苦痛だ。日頃の生活では何も困らない。誰とでも話せるのだから暇はしないし、そもそも独りが嫌いではないのだ。皆といるのも好きだし、独りも好き。適度な距離感で、心地よい生活を送る。輝いてはいないかもしれないが、かと言ってくすんでいる訳でもない。程よい、身の丈にあった幸せな生活だった。卒業式が終わると、皆別れを惜しんで最後の時を過ごす。グループ云々に縛られず、気の合う不特定多数と過ごしてきた自分。その不特定多数はそれぞれにグループに所属していて、俺はその構成員の殆どと、可もなく不可もない関係を築いている。可もなく不可もない構成員と最後の時間を過ごすか、と言われたらどこか不安になる。そしたらそんな構成員がいるこのグループに居場所は無いな。じゃあ他はどうだ、どこも同じだ。俺の居場所はどこだ。そこで考えると、うん、本当はこの学校に俺の居場所はなかったのかもしれない、そんな気持ちになるのだ。最後の最後に。友達はいるけど、居場所が無い事を突き付けられるから、卒業式は嫌い。

しっかりと卒業式に参加するのは小中高の3回だと思うが、どれもいい思い出がない。糞かと聞かれたらそうではないが、居心地の悪さをひしひしと感じる日になる。同じような人も、きっといると信じている。

もし自分が結婚式を挙げるとしたら、誰を招待するか、を考えてみてほしい。そこでそこまで迷わないで人が浮かべば、それは確立したグループの中でぬくぬくと過ごしてきた、幸せの象徴だ。一方しっぽは、誰を誘えばいいか分からない。一人二人くらいしか浮かばず、それ以上に枠を広げたら市民ホールを借りなければならない程の人数を呼ぶことになる。端的に言えば、結婚式に呼ぶ人がいないのだ。これを想像し得る人はもしかしたら同じ境遇を体験してきたのかもしれない。

別に同じ人を探して同じだね、とかそんなことを言いたいわけでなく、どちらかと言うと同じ経験を今年した学生さんにそんな事考えるなと言いたい。考えても答えはないし、この先も同じように人間関係を、この上なく薄く程々に広い人間関係を築いていくのだから。慣れてしまうのが楽だ。

なにが書きたかったか、書いている途中に忘れたが、まあとにかく卒業式の後の謎空気が嫌いだということ。ふと思い出したから記しておく。