虎になって

虎になっていきる、虎になって眠る

ノルウェーの森を読んで

右足の中指、爪と肉がびったりくっついちゃってて爪がいまいち切れないしっぽだ。何気に痛いが生活に支障はないし、爪の障害だなんてなんかものすごいジジ臭いので、リアルでは秘密だ。文面で見ると少しグロテスクだが、実際は小綺麗なものだ。

 

しっぽが大好きなYouTuber、ある意味で尊敬までしているYouTuberさんなのだが、その方がいつも持ち歩いている本が2冊、それが安部公房「壁」と、ノルウェーの森下巻だそうで、それなら読んでみよう、と手に取った。「壁」は短編だったが、異様な状況な分、スピード感のようなものはなく、少し疲れた。そもそも、話の内容が脳の疲れるもので、しかしそれは素晴らしい事、発想のユニークさは天下一品であった。個人としては「Sカルマ氏の犯罪」以上に「バベルの塔の狸」が好みだった。

 

「壁」を1週間ほどかけ電車内でゆっくり読み、さて次はノルウェーの森か、などと思い書店に寄ると、他の小説とは違い、平積みでもないのに上下巻ともに2冊づつ陳列されるノルウェーの森を見て、あら今でもよく売れるのかしら、などと思ったものだ。電車の中で頁をめくる。「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」真理をつくスマートな言葉だ、さらに死を扱う小説か、死をめぐる体験が最近多いしっぽは、その傷を癒してくれるのか、はたまたしっぽに新たな死の価値観を提示してくれるか、、、この時ノルウェーの森に対するしっぽの期待は、大きく大きく膨らんでいた。

しかし、しかしながら、「ノルウェーの森」は期待に応えてはくれなかった。話が進めば進むほど、しっぽは困惑していった。彼の独特な文体にではなく、あまりにセックスしかない点に、だ。やたらと精巧な描写で描かれる性交の様子は、いままでにそういった類の小説を読んでこなかったしっぽを酷く困惑させ、そして死の対極ともいえるセックスを延々と続け、セックスしてない時には彼女とのセックスを思い出して、小説の8割がかなりエグい性の話だった。そういった印象。下巻に入る頃には惰性もいいところ、最後のレイコさんとヤッた時には流石にうんざり、もしそのときにまだ四分の一程残っていたのなら、流石に読み通さなかったと思う。

古い作品にも関わらずこれほどまでに評価、売れ行きがよく、それなのにこんなに訳がわからない筈がない、きっとしっぽが童貞で性に対してあまりに無知だから「ノルウェーの森」が理解できなかったのだろう、そうやって自分を疑った。その説も濃厚だが、如何せんオチがない。始めしっぽの胸を膨らませた命題である「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」は何処で解決ないし回収されたのかさらさら検討がつかなかった。確かに出てくる登場人物全てに微かな死の匂いがつきまとったが、だからといって大層立派なこの命題は全く解決されていないと、そう感じた。一度しか読んでないクソ童貞は黙ってろとか思ったハルキストの方々には申し訳ないが、正直な感想がこれだ。全く申し訳ないと思っていないから記事にしてるのだが。

実際周りの読書家に聞いても村上春樹はオチがない、と言うし、今ではあながち間違ってない感想だと思っている。この本を勧めてくださった方も、村上春樹はオチがないけれど、それがリアリティであり、身近な生活のように感じられるところが、彼の魅力である、といった趣旨の事を後日話していた。今回は、しっぽには合わなかった、そう考えることにしたしっぽであった。